3.11の時期です。
この時期になると気持ちがざわつきます。今年もメディアがいろいろと特集を組んでいましたが、それを視る気にはなれません。
「まだつらいんだよ」と「がんばっているんだよ」の両極端にスポットライトを当てているため、どうしても報道機関の「視聴率」を意識したバイアスを感じてしまうからです。
10年前のこの時、私はひと仕事終えて同僚達のいる部屋に戻って来ると、みんなでテレビを囲んでひそひそ声でしゃべっていました。そこに映っていたのは燃える工場でした。
「なにか特撮映画でも観ているのかな?」と思って近くの人に聞くと、「なにか災害が起こったらしい」とのこと。しばらくすると津波警報が太平洋沿岸に出たので、見に行こうかなとも思ったのですが、あまりにも切迫した様子のニュ-スを見て「これはふざけている場合ではないな」と思い、その部屋を出て仕事を続けました。
勤務時間が終わり家に帰ってテレビをつけると、信じられない映像が次々と目に入ってきました。阪神淡路大震災と同じかそれ以上の災害が起こったことを夜になって初めて知り、一人でうろたえていたことを覚えています。
その後、震災・津波・原発トラブルという情報が入り始め、東日本全体に被害が広がっているという事実がはっきりと認識できました。
この年も「東京モ-タ-サイクルショウ」に行くつもりでしたが、開催中止のためやむをえず5月に東京行きを延期。
東京に行ってみて驚きました。暗いのです、あの東京が。
上野駅なんかは印象として半分くらいの明るさしかありませんでした。普通の時なら「イギリスの駅みたいに落ち着いた照明で趣がある」と喜べたのですが、「電力供給不足だったため」という事実を突きつけられ、初めてこの災害の甚大さを実感させられたのです。
それまでも報道からこの事態の深刻さを「知って」いたのですが、実際は「わかって」いなかったのです。ちょうど夏に山形の友人宅に行く予定だったので、回り道をして現場近くに行ってみることにしました。
夏。R6を北上して福島県に向かいました。徐々に交通量が減り、先行車も後続車もいなくなり、対向車はバスばっかり。不思議に思ってすれ違いざまに乗っている人を見ると、防護服を着ている人たちでした。
「いかん、危ない所へむかっているのか」と思い、道端に停止。外に出てみて驚きました。
「音がしない」のです。
明騒音も、暗騒音も、何も。
ここは人が生活している/生活できるエリアではなかったのです。ふと道の反対側を見ると、コンビニが。この時初めて知りました、24時間営業のコンビニにもシャッタ-があることを。
尋常ではない人気の無さに怖くなって行く先を見ると、遠くの道の上に何かあるのが見えました。「人がいる!」と思いそちらまで車を走らせると・・・
警察車両のバスでした。う回路を聞こうと近づくと、あっという間にたくさんの機動隊員に囲まれてしまいました。どうやら泥棒、またはテロリストに間違われたようです。
誤解が解けた後、地図を見せながら丁寧に教えてくれましたが、他県からの応援警官だった(肩のワッペンが他県のもの)ためか、彼らも間違えていました。う回路に入るたびに通行止め。その都度警官に道を聞き、タイムロスをしながら何とか内陸に入ることができました。
この時に、震災と原発事故のダブルパンチがこの地に与えた被害の大きさが理解できました。
翌年。徐々に「復興」という言葉が使われ始めました。「そうか、復興が始まったか。どうなっているのか見に行こう。」と思い、GWは福島ツーリングに決定。
あちこちで工事が行われている中、県南部の海岸沿いの道を北上していた時のこと。
右側はダメ-ジを受けた防潮堤、左側は2m弱の高台でその向こうに丘がある所を走っていました。「防潮堤はあるからこのあたりは被害がなかったのだろう。この高台の上に家を建てていれば流されることも無かったろうになあ。」と思って走っていたのですが、どうも不自然さを感じてバイクを停め、その高台に上がってみると・・・
一面、家の基礎。
まるで家の白骨のようでした。
ここに家があったのです。ここに人がいたのです。ここに「生活」があったのです。
身体が固まりました。動けませんでした。呼吸もできませんでした。
「復興」という希望の言葉が空々しく感じ、無性に腹が立ちました。
そんな言葉を使った報道機関に対して。
安易に信じ、「よかったね」と思った自分に対して。
北上を続けるに従ってそんな景色が増えてきました。次々に目に入ってくる想像もしていなかった景色に感情をコントロ-ルできず、知らないうちにヘルメットの中で大泣きしていました。
「何ができるわけでもない。自分にできるのはこの状況を直視し、咀嚼し、誰かに伝えることぐらいしかない。」
そう思ってこのツ-リングを続けながら、その一方で、復興を進めているのも事実なので、この先この地域がどう変わっていくのかというのも見届けるため、毎年ここへ来たいと思うようになりました。
今まで年に1回はこの地を訪れています。いろいろな変化が見られてとても興味深く思っています。毎回心を揺さぶられるのですが、次回はその中でも2つの出来事をお伝えします。
では。